記憶の扉

2014.06.03 Tuesday


部屋の片付けをしていると、様々な思い出に出会う。
中学の頃、好きだった吉野弘さんの詩をみつけた。
 「I was born」吉野弘

確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 
青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。
物憂げにゆっくりと。

女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。
頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し
それがやがて 世に生れ出ることの不思議に打たれていた

女はゆき過ぎた。

少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は〈生まれる〉ということが
まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。
僕は興奮して父に話しかけた。

ーやっぱり I was born なんだねー
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
ー I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだねー
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。
僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。
それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。
僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。

ー蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが 
それなら一体 何の為に世の中に出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってねー
僕は父を見た。父は続けた。
ー友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。
説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。
胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。
ところが卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。
それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 
咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい光りの粒々だったね。
私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。
〈せつなげだね〉。
そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、
お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのはー。

父の話のそれからあとは もう覚えていない。
ただひとつの痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。

ーほっそりとした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体ー。




国語の教科書に載っていた吉野弘の ーI was bornー は
中学生だったわたしの心にも深くしみ込んで、ずっと忘れることができなかった。
何十年も経った今もかわらずに、胸の奥に響く。

 
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